大判例

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東京地方裁判所 昭和42年(行ウ)141号 判決

原告

張栄魁

原告

林啓旭

右両名代理人

大野正男

山川洋一郎

大橋堅固

西垣道夫

被告

東京入国管理事務所主任審査官

川原謙一

被告

法務大臣

小林武治

右両名指定代理人

横山茂晴

外六名

主文

被告東京入国管理事務所主任審査官が、昭和四二年八月二五日付で原告らに対してした台湾への退去強制令書発付処分はこれを取消す。

被告法務大臣が原告らに対し、原告らの出入国管理令第四九条第一項に基づいてした異議の申出を棄却する旨の昭和四二年八月一四日付の裁決はこれを取消す。

訴訟費用は被告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  原告ら

主文と同旨の判決

二  被告ら

「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする」との判決。

第二  当事者の主張

一  原告ら主張の請求の原因

(一)  原告らは、いずれも台湾人であるが、東京入国管理事務所特別審理官より、原告張においては昭和四〇年四月二六日以降、原告林においては昭和四一年四月二六日以降いずれも本邦に不法に残留するものであるとの告知を受けたので、直ちに被告法務大臣(以下被告大臣と表示する)に対して異議の申出をしたところ、昭和四二年八月一四日、被告大臣より各原告に対し、それぞれ右異議の申出は理由がない旨の裁決がなされ、同月二五日被告東京入国管理事務所主任審査官(以下被告審査官と表示する)により原告らに対し、それぞれ退去強制令書が発付された。

(二)  しかし右被告大臣の各裁決および被告審査官の各退去強制令書の発付は、いずれも違法である。

(三)  (違法の指摘)

(1) 本件各処分は、確立された国際法規ないし憲法第九八第二項に違反するものであるから違法である。

(イ) 政治犯罪人ないし政治難民を本国に送還せずにこれを保護することは、確立した条約ないし国際慣習法である。

A 政治犯罪人について、引渡を行なわないことは現在国際慣習法上も条約締結の実際においても、また学説上も一般に確認されている。

B また政治犯罪人よりも広い概念であるいわゆる政治難民(政治的理由により本国において迫害を受ける十分な根拠があり、その為に外国に逃れ、または現在外国にいる者であつて、このような恐怖のために自国の保護を希望せず帰国しようとしない者「難民の地位に関する条約」第一項Aの(2))をその本国に送還してはならず自国民と同様に保護することは、国際慣習法となつている(一九四六年一二月二五日国連総会で承認されたILO規約、一九五〇年一二月一四日国連総会で採決された国連難民救済高等弁務官規約、一九五一年七月成立した難民の地位に関する条約等参照)。そして日本国憲法第九八条第二項は、国際法の国内的効力を定めたものである。

(ロ) 原告らは政治犯罪人ないし政治難民である。即ち原告らは、台湾青年独立連盟に所属している。同連盟は、「蒋介石により踏みにじられてきた台湾人の主権と自由を回復するために国民政権を打倒し、台湾に住む全ての人々の差別なき真の自由と平等とを確立し、平和にして民主的な近代国家を建設する」ために組織された「全国民革命団体である」と自らを規定し、雑誌「台湾青年」および「台湾」を刊行して蒋介石政権下の台湾の現状を批判し、在日台湾人を対象として、いわゆる「台湾民族主義」の教育宣伝活動を行なつていた。

原告張は、右連盟の中央委員、中央執行委員の地位にあり、その地位に基づき連盟の総務担当責任者となつている。

原告林も右連盟の中央委員、中央執行委員の地位にあり、その地位に基づき連盟の財政責任者となつている。

原告張は同連盟の活動家として蒋政権を批判し、その正当性を否定する左記の執筆公刊活動を行なつた。

A 「台湾青年」六六号に芸術文化の砂漠―台湾

B 「同」七二号に所謂台湾「地方自治」

C 「同」七七号に台湾独立青年行進曲

原告林も右同様の活動を左記のとおり行なつた。

A 「台湾青年」五一号に一九六五年を迎えた国府

B 「同」七四号に台湾の国際法的地位(一)

C 「同」七六号 右 同 (二)

ほか数篇

右両名が同連盟の役員であり、かつ、叙上の活動をなしたことにより、かりに両名らが台湾に送還された場合には、両名は蒋政権下の法令、刑法第一〇〇条、懲治判乱条例第二条、第五条、第七条、第一〇条の諸規定に該当するものとして処刑されることは明らかである。(なお、右の各条文の内容は別紙のとおりである)

(2) 本件各処分は、裁量権の逸脱ないし濫用があるから違法である。即ち、前記のとおり、原告は、台湾に強制送還されたときは、その生命、身体は重大な危険にさらされる。よつて本件のごとき事例については、被告大臣は、裁量権を適切に行使してこれを保護すべきであるのに、裁量権を逸脱ないしは濫用して棄却の裁決をしたことは違法であり、これと一体をなす後行行為たる被告審査官の退去強制令書発付もまた違法たるを免れない。

(3) さらに、本件退去強制令書には、その必要性、理由が存しないので、権利の濫用である。

(イ) 一般に外国人の強制退去には、その国としてなんらかの必要、理由があることが当然であると考えられている。従つてその必要、理由がどうみてもないような場合には、退去強制が権利の濫用として国際法にふれる場合が生ずる。

(ロ) かりに政治的難民を本国に送還しないでこれを保護することが確立された国際慣習法といえないとしても、本国への強制退去の必要性や理由が十分でない場合には、国際法上権利の濫用となる可能性は一段と増大する。

(ハ) 本件退去強制令書には、なんらその必要性、理由が存在しないのであつて、国際法上権利の濫用である。

二  被告の認否および主張

(一)  請求原因中(一)の事実を認め(但し、原告林が不法残留となつたのは昭和四一年四月二六日以降ではなく、同月二五日以降である)、(二)の主張を争う。(三)の主張事実中原告らが「台湾青年」にそれぞれ主張のような文章を執筆したこと、中華民国で原告ら主張のような法律が制定されていることはいずれも認めるが、その余はすべて争う。

(二)  被告らの主張

(イ) 本件退去強制令書が発付されるまでの経緯は次のとおりである。

(1) 原告張栄魁について

同原告は昭和三五年九月一九日本邦に入国した。その際在留期間は同日より一年間、在留資格四―一―六(出入国管理令第四条第一項第六号)の許可を受けたが、その後五回にわたつて更新許可を受けた。即ち、第一、第二回更新許可は当初と同一内容であつたが、第三回更新許可は、原告が留学生であるのにかんがみその在留期間を卒業期に合せて二二四日(昭和三八年九月二〇日から昭和三九年四月三〇日まで)とされ、在留資格も四―一―一六―三に変更され、昭和三九年三月国立音楽大学声学科を卒業した。しかし同年四月同大学バイオリン学科(二部)に入学したので、さらに第四、第五回更新許可においていずれも在留期同一八〇日(昭和三九年五月一日から同年一〇月二七日および同月二八日から昭和四〇年四月二五日まで)に短縮されたうえ許可された。ところが原告は最後に期間更新手続を怠つたために昭和四〇年四月二六日以降本邦に不法に残留することになつた。そこで東京入国管理事務所入国審査官は昭和四〇年七月二九日、原告が出入国管理令第二四条第四号ロに該当する旨の認定を行なつたが、原告は同所特別審理官に対して口頭審理を請求し、同審理官が同年八月三〇日右認定に誤りがない旨の判定をしたので、さらにこれに対して異議の申出を行なつた。右不服申立の理由は台湾独立運動を行なつており本国政府より反政府分子として逮捕される危険があるので帰国できないというものであつたが、昭和四二年八月一四日右の異議申出は理由がない旨の被告大臣の裁決がなされ、同月二五日被告審査官がその旨を原告に通知するとともに退去強制令書を発付してこれを原告に示して執行した。

(2) 原告林啓旭について

同原告は昭和三八年四月二四日本邦に入国した。その際在留期間は同日より一年間、在留資格四―一―六の許可を受け、その後二回更新許可を受けたが(従つて在留期間は昭和四一年四月二四日まで)、昭和四一年六月一三日付で右期限以降の在留期間更新許可申請は不許可となつた。それで原告は昭和四一年四月二五日以降本邦に不法に残留することになつた。

そこで、東京入国管理事務所入国審査官は昭和四一年一一月一五日、原告が出入国管理令第二四条第四号ロに該当する旨の認定を行なつたが、原告は同所特別審理官に対して口頭審理を請求し、同審理官が同年八月三〇日右認定に誤りがない旨の判定をしたので、さらにこれに対して異議の申出を行なつた。右不服の理由は右原告張栄魁についてと同一であり、昭和四二年八月一四日、右の異議申出は理由がない旨の被告大臣の裁決がなされ、同月二五日被告審査官がその旨を原告に通知するとともに退去強制令書を発付してこれを原告に示して執行した。

(ロ) 原告らの主張は次の理由によつていずれも失当である。

(A) 本件退去強制令書の発付は、確立された国際法ないし憲法第九八条第二項に違反するものでない。

1 原告らは、いわゆる政治犯罪人については、これをその本国に引渡さず入国を許可して保護を与えることが確立された国際法であるかの如く主張する。原告らがここにいう国際法の原則は、いわゆる政治犯罪人不引渡の原則をいうものと解されるが、この原則は個人に対して外国に亡命する権利を与えるものではない。犯罪人引渡とは、一国の刑法その他の法にふれた犯罪人が他国にある時、後者が前者の要求によりこの犯罪人を引渡すことをいうが、この犯罪人引渡は一般国際法による権利ないしは義務ではなく、個別的な条約によつてのみ国際的な義務とされ、このような条約が締結されていない場合には法的義務は存在しないが、国際礼譲として引渡がなされる場合があると解されている。しかして、このような犯罪人引渡に関する条約が締結される場合、政治犯罪人については引渡の対象から除外するという規定が捜入されるのが今日では普通である。これを政治犯罪人不引渡の原則と通常いつているが、これは規範的意味での原則ではなく、むしろ政治犯罪人不引渡の主義という方が適当であると解されている(嘉納、孔、国際法講座第二巻第四節六四頁、なお、佐瀬昌三、政治犯罪並に犯罪人引渡制度に関する研究司法研究第一九輯四、二三三頁以下参照)。

このようにいわゆる政治犯罪人不引渡の原則は、国際間における犯罪人引渡の例外として採用されているものにすぎず、特定の個人について他国の保護を受ける権利を与えるものではないから、この原則をもつて政治亡命者をその本国に送還することが国際法上禁止されている根拠とする原告らの主張は誤まつている。

2 次に原告らは、国際難民機関規約(IRO)国連難民高等弁務官規約、難民の地位に関する条約等の条約や制度を採用して、政治的難民を自国民と同様に保護すべき国際的な慣習ないし通念があると主張するので、この点に関する被告の見解を述べる。

(1) 国際連盟時代の難民問題

国際的な難民問題は、ロシア革命による多数のロシア人(白系ロシア人)の難民化に端を発した。

一九一二年九月ナンセン博士がロシア亡命者高等弁務官となり、難民に対するいわゆる「ナンセン旅券」の発給等の難民の組織化を主とする活動がなされ、一九三〇年ナンセン博士の死亡後も、国際連盟の後援の下にナンセン国際難民事務局が設立され、一九三八年まで自主的に人道的活動を行なつた。

その間にドイツにおけるユダヤ人迫害が発生し、一九三三年にドイツ難民のための難民高等弁務官が設けられ、一九三八年に難民単一高等弁務官が設けられ、ロシア並にドイツ難民の双方を処理することとなり、人道的立場からする協力を容易にし、難民の移住と永住を促進するための援助を行なつた。

他方、一九三八年に開かれた国際会議で政府間難民常任委員会が設立され、当初は大ドイツからの難民を対象としたが、一九四三年から全ヨーロッパの難民も含めることとなり米国、英国、ソ連その他多数の国がこれに参加していた。この委員会は、難民の保護、扶養、移転を任務とした。

(2) UNRRAの設立

一九四三年に四四箇国(後は四八箇国)によつて、連合国救済復興機関(略称UNRRA)が設立され、第二次世界大戦の結果生じた多数の避難民の帰国の援助の任務にあたつた。

(3) IROの設立

一九四六年国際連合社会経済委員会により国際難民機関(IROと略称)の設立が勧告され、IRO準備委員会が設立され、亡命者と戦争避難民を対象とする国際機関の設立が計画された。

この討議の間、亡命者と戦争難民の措置について、これらの大多数の生じた白ロシア、ポーランド、ウクライナ、ソ連、ユーゴスラビアの諸国と、米英仏その他の難民等のキャンプを管理し又それらの再定着に関係のある諸国との間に見解が分かれた。即ち、難民等の発生した諸国は、問題の唯一の解決策は彼等の帰国にあるとし、難民等に関する国際機関が設立されるとしたら、ただ帰国に関する法規のみが設けられるべきであつて、再定着の手段は厳に差しひかえるべきであると主張し、他の国連加盟の大半の国々は帰国は難民に強調さるべきではなく、戦犯者と戦争協力者以外の者で、十分に根拠ある理由から帰国を希望しない者に対する解決策は再定着であると主張した。

このようにして、一九四八年運転資金の七五%を負担する一五箇国がIRO憲章の当事国となることによりIROは発足し、一九五一年までその活動を続けた。IROの職能は本機関の対象となる人々を受け入れる事が可能で、又、意図する国々に帰国させ、身分保証をし、登録し、分類し、保護し、援助し、法律的政治的に保護し、移住させ、再定着させ、復帰させることであると規定された。この機関の活動対象となる亡命者は、その本国又は定着地と離れている者で、ナチス、ファシスト、ファランフェ制度の犠牲となつたもの、又は、民族、宗教、国籍、政見の理由で第二次世界大戦勃発前に難民とみなされた人々であり、戦争避難民とは、これらの制度により強制労働民族、宗教、政見の理由で本国又は定着地から追放された人々をいうものとされている。

IROが存続中、その活動によつて、七万三千人の避難民が帰国し、百三万余人が米国オーストラリヤ、イスラエル、カナダ等の諸国に再定着した。

(4) 国連難民高等弁務所の設立

一九五一年にIRO廃止後の難民の国際的保護機関として国連難民高等弁務官事務所(略称UNHOR)が発足した。同事務所規定に定めるその職能は、国連の援助のもとに、難民を国際的に保護し、政府又は当事国の承認のもとにある民間団体が難民の同意帰国又は新地域における同化を容易にして難民問題を永久解決することにあるとされている。同機関は、この目的のために種々活発な活動を行なつた。同機関の活動の対象とされた難民は、一九五一年一月一日以前に生じた事件の結果として、かつ、民族、宗教、国籍又は政見を理由として迫害を受けている十分な根拠のあるために自国外に住み、自由に帰れない者であつて、個人的利益からでない恐怖その他の理由により自国の保護を受けることを希望しない者あるいは国籍を持たず従来居住していた国を離れている者でその国に帰れない者又は個人的利益からでない恐怖その他の理由により自国に帰ることを希望しない者とされている。

なお、白ロシア、チェコ、ポーランド、ソ連、ウクライナーは帰国のみが難民問題の解決策であるとして同機関の設置に反対した。

(5) パレスタイン難民及び朝鮮難民に対する救済

別にパレスタインの紛争の結果生じたアラビヤ人及びユダヤ人難民の救済のため一九四八年にパレスタイン難民救済局が設けられ、又、朝鮮動乱の結果生じた難民の救済のために、国連朝鮮再建局、統一司令部、朝鮮市民援助司令部等の機関によつて一九五一年ないし同五三年に多数の難民の救済が行なわれた

(6) 難民の地位に関する条約

一九五一年七月UNHORの参加の下に二六箇国によつて開かれた全権会議において難民の地位に関する条約が採択され、一九五四年四月二二日発効した。この条約は、一般的に難民の処遇を定めたものではなく、第二次世界大戦前の各種条約及び協定中で難民とされていた者、IROの憲章で難民とされている者及び一九五一年一月一日以前に生じた事件の結果として、かつ、民族、宗教、国籍、特定の社会団体に属すること、政見の理由が迫害を受ける確実な恐怖のために本国を離れている者であつて、本国の保護を受けることが不可能又はこのような恐怖のためにこれを希望しない者、あるいは、無国籍者であつてこのような事件の結果としてその前住地を離れ、そこにかえることが不可能又はこのような恐怖のためにそこに帰ることを希望しない者を対象としているのである。

なお、締約国は、この条約署名、批准、加入に際し、一九五一年一月一日以前に発生した事件という字句は欧州において生じたものに限るか又は欧州あるいはその他の地域において生じたかのいずれか規定するように声明することとなつている。

この条約では、難民の処遇として、各種の面で常任国における当該国民又は一般外国人と同様の取扱をなすべきことを定めると共に、難民について、その生命と自由をおびやかされて国外に出て不法入国を行なつたという理由で罰せられないこと、国家の安全と公共の福祉の理由を除いては亡命者の身分を排除され、又は、国外に追放されないこと難民の生命と自由がおびやかされている場合難民を追放したり国境近くに強制送還しないこと等が定められている。

いわゆる政治亡命者及び戦争避難民に対する国際的な取扱い、特に国連の機関による難民の救済措置についての概要は右に略述したところであり、これによれば、特定の範囲の難民について多数の国家によつて避難国への定着を含む救済措置が採られていることは事実である。(そしてこのような状勢から判断すれば、難民に対して国際的保護を与えることが一般的な傾向として存在することは否定し難いようにも思われる。)

しかしながら、それだからといつて、直ちに政治亡命者をその本国に追放することが日本国法上違法とされることにはならないと考える。

(1) 原告らは、日本に不法残留したものである。したがつて、かかる者が政治亡命者と目すべきであるとしても、その強制送還が日本国法上違法とされるためには、政治亡命者が国際法上日本国に対して保護を請求する権利を有することが必要である。すなわち、不法残留については、日本国からその保護を承諾されているのではないから、不法残留の追放の許否は、もつぱらその者が国際法上日本国に対して保護を求める権利を有するかどうかによつて決定さるべきものと考える。もし、政治亡命者がかかる権利を有するとすれば、日本国法上も、政治亡命者の追放が違法とされることがありえよう。しかし、日本国が政治亡命者に保護を与うべき国際法上の義務を有しないとすれば、一般に国家として外国人の入国在留を認めるかどうかはその国の任意に決しうるところである以上、政治亡命者に対する保護を拒否することが違法とされるいわれはない。そして、かりに、日本国が国際法上政治亡命者を保護すべき義務を有するとしても、政治亡命者が個人としてかかる保護を外国に対して求める権利を有しないとするならば、政治亡命者に対する保護の拒否は、当該国家に国際法上の義務違反を生ぜしめることにはなつても、政治亡命者個人から、かかる保護の拒否を違法として国内法上の救済を求めることは許容されないと考えなければならない。

(2) そこで、次に、国家として他国からの政治亡命者に対して避難を認めるべき義務を負うことが一般的に確立された国際法となつているかどうかについて検討する。

前述したように、政治亡命者や戦争避難民に対する保護が相当広範囲に行なわれていることは事実である。しかし、次に述べるような諸事情に照らせば、これをもつて、国家の難民に対する保護義務が国際法上確立されていると判断するのは疑わしい。即ち、(A)前述した難民に対する保護について、難民発生諸国は、難民問題の唯一の解決策は帰国であると主張し、難民の定着をはかろうとする国連の措置に反対している。このことから、難民問題が人道上の問題として取扱われてはいるが他方亡命を是認するかどうかが政策的立場の如何にかかわる側面をも有するのではないかとも思われる。(B)国際的な難民救済措置は、特定の事由に基づくものに限定して行なわれ難民の地位に関する条約も同様であつて、難民に対する救済を一般的に定めているわけではない。特に、亡命事由を欧州においては生じたものに限定することを締約国に認めている。(C)更に、右の条約では、避難国の保護義務を認めてはいるが、それは、相当期関国際的機関による帰国、再定着についての多大な努力がはらわれた結果、なお帰国ないしは再定着ができない者について残された唯一の現実的解決方法として避難国による保護が採用されたものであつて、当初から避難国への局地的定着が当然のこととして処理されてきたものではない。以上の諸事情から見れば、難民を避難国で保護することが国際法上国家の一般的義務として承認されるまでには至つてはいないと考えられる。これに加えて実質的にみても、難民保護義務を無制限に認めることは経済的余裕に乏しい国家にとつては過当な責任を負わされることにもなりうるし、又、難民に該当するかどうかの認定は必ずしも一義的に決定しうるものではないのであるから、難民保護を一種の努力目標とすることは格別、直ちに実定法上の国家の義務とすることは相当ではないようにも思われる。要するに、難民の保護は、現在の国際法上はいまだ国家の一般的義務として確立されてはいないと解すべきものであろう。

(3) 次に、かりに難民の保護が避難国の義務とされていても、そのことから直ちに難民個人に他国の保護を請求する権利があることにはならない。一般に条約等の国際法規において個人が国際法上の主体性を有しうるかどうかについては議論の存するところであつて、伝統的な考え方はこれを否定する見解であり、近時個人に主体性を認める見解が生じてきている。しかし、個人に主体性を認める見解のうちでも、国際法が個人の権利や義務について規定しているだけで、直ちに個人の国際法主体性を認めるのではなく、個人が少くとも自己の名において国際的に権利を主張しうる可能性を与えられている場合にのみ個人に国際法上の権利が認められるとする見解が有力であり、これが実定国際法に関する見解としては、妥当であろう(田畑茂二郎「国際法上の主体」国際法講座第一巻第九八頁参照)。

そうだとすれば、政治亡命者について国際法上他国の保護を求める権利を認めることはできないわけである。

以上の次第であるから、国家が政治亡命者を保護すべき義務を有することを前提とする原告らの主張は失当である。

4 かりに、何らかの理由により政治亡命者の本国送還が違法とされることがあつても、政治亡命者であることの立証は、保護を求める者においてこれをなすべき責任を有することはいうまでもない。

そして、亡命が外国の保護を求めるものである以上、政治的亡命の理由について十分な根拠を有すべく、単なる抽象的なおそれ程度では政治亡命者としての保護を要求するには足りないというべきである。

前述した亡命者の地位に関する条約で亡命者を定義づける一要件として、政治的迫害を受ける十分な根拠のある恐怖の故に本国を離れた者と規定していることもこの理を明らかにしたものといえよう。

原告らが右の政治亡命者に該当しないことは後記のとおりである。

(B) 裁量権の逸脱、濫用のかしはない。

原告らは、被告大臣が原告らに対して在留の特別許可を与えなかつたのは、その裁量権を逸脱しこれを濫用した裁決であつて、これと一体をなす本件退去強制令書の発付処分もまた違法たるを免れないと主張する。

しかしながら、外国人の入国ならびに在留の許否は、国際慣習法又は特別の条約が存しないかぎり当該国家の自由に決しうるところであつて、出入国管理令第五〇条に基づき在留の特別許可を与えるかどうかは法務大臣の自由裁量に属するものである(最高裁判所、昭和三四年一一月一〇日判決、民集一三巻一二号一四九三頁)。しかも右許可は国際状勢、外交政策等をも考慮の上行政権の責任において決定さるべき恩恵的措置であり、裁量の範囲のきわめて広いものであつて、法務大臣がその責任において裁量した結果については十分尊重されて然るべきものである。

原告らは、本邦においていわゆる台湾独立運動を行なつたから、本国へ送還されれば、生命、身体が重大な危険にさらされることが明らかであると主張するが、原告らのいわゆる台湾独立運動なるものの実態は必ずしも明らかでない。原告らは台湾においては何らの運動を行なうことなく、本国政府から旅券の交付を受けて出国した後、自ら台湾独立運動者と宣伝し、本邦においてことさら人目につく刊行物等の発行を行なつているもので組織らしい組織も持たない程度の集まりで、原告らのいわゆる台湾独立運動は、真しな政治運動ではなく、単に特別在留許可をうるための方便にすぎないものである。

現に原告張栄魁は、本国政府に旅券の期間延長の申請をなし、昭和四〇年五月一七日付で期間を一年延長(昭和四一年二月二八日)までされているのである。原告らの運動が右の程度のものである以上、はたして原告らの主張する各刑事法規の構成要件に該当し、従つて本国へ送還された場合に前記各法条により処罰され、その生命、身体が重大な危険にさらされることも必ずしも明らかではない。

のみならず、昭和四三年二月七日付在本邦中華民国大使館より法務省入国管理局あての覚書によれば、大使館は、「中共組織参加の元兇を除き、中華民国政府が国家の利益に違反する台湾独立運動等の政治活動をなした者に対し、過去の如何を問わず処罰しないという寛大な精神を執つている」のであつて、「中華民国政府は、一貫してこの精神に基づいてかかる事件の処理に対処してきたのであります。中華民国政府は、今後もまた上述の寛大な精神と政策に基づきすべての類似事件処理に対処するものである」旨申越しているのである。原告らが仮りに本邦においてその主張の如き政治活動をしたものとしても、台湾に送還されても処刑される惧れはないものといわなければならない。

三  被告らの主張に対する原告らの反論

(一)  被告らの右主張はいずれも争う。

(二)  (反論)

(1) 本件処分が逃亡犯罪人引渡法に違反するものである点についての詳論および裁量権の逸脱についての指摘ならびに政治犯罪人ないし政治難民の保護に関する国際法規についての補充的主張を次のとおり述べる。

(イ) 本件強制退去処分は逃亡犯罪人引渡法第二条第一号に違反する違法な処分である。

逃亡犯罪人引渡法第二条は、「左の各号の一に該当する場合には、逃亡犯罪人を引渡してはならない」とし、その第一号は「引渡犯罪が政治犯罪であるとき」と定めている。即ち、逃亡犯罪人の身柄の引渡しを外国から要求された場合においてわが国は、その犯したとされる犯罪が政治犯であるときはその引渡をしてはならないのである。これは法律による国家の義務である。

同法条が国家の義務として政治犯罪人不引渡の原則をはつきり明示している所以のものは、請求の原因でのべたように、近時世界の文明国における政治犯罪人ないし政治難民保護の趨勢に鑑み、わが国においても、この国際的な人道上の原則に従つて、内法上明文をもつて規定したのである。

同法条は、直接には請求国から引渡請求があつた場合、請求国において刑事手続の行なわれた逃亡政治犯罪者の不引渡を定めたものであるが、その趣旨は、右の如く本国に送還されるならば、政治犯罪を犯したとして、刑事上の処罰を受けること明らかな者を、人道上の立場から保護するところにある。たまたま本国から引渡請求が現実に行なわれてないからといつて、政治犯罪者に強制退去を命じて本国に送還することは少くも同法条の趣旨に反するものであり、又、たまたまわが国に在留するが故に起訴を免れているがこれを本国に送還すれば政治犯罪者として刑事処罰をうけること明らかな者に対して退去強制をして死地に赴かしめることも、同じく右法条の趣旨に反するところである。

被告らは本件において政治犯罪人不引渡の原則が国際的に確立していることを極力否認し、規範的意味がないというのであるが、わが国が逃亡犯罪人引渡法第二条第一号において、引渡犯罪が政治犯罪であるときは、逃亡犯罪人を引渡してはならないとしていることは、まさに、右原則を国際法上の確立された規範として承認しているからに他ならない。(因みに右法律は犯罪人引渡に関する条約〔現在わが国はアメリカ合衆国とのみ条約を結んでいる〕の履行手続のみを定めたものではなく、条約締結の有無に限らず、広く一般に引渡請求があつた場合に適用される。同法第四条第三号参照)

(ロ) 被告らが原告らに特別在留許可を与えず、退去強制したことは、裁量権の逸脱であるとする主張の補論。

そもそも政治亡命者を本国に強制送還しないということは、わが国政府が国会においてはつきり断言しているところであり、政治亡命者である原告らに特別在留許可を与えることなく強制退去させて本国たる台湾に送還することは、わが国政府自らが国民に明示した方針に反するものであり、裁量権の逸脱乱用である。

即ち、昭和三八年五月二八日参議院法務委員会において、政治亡命者という点が明らかである以上は、当局の態度ははつきりしていると思うがどうかとの亀田得治議員の質問に対し、中垣法務大臣は、

「政治亡命ということが非常に明確な場合にはやはりそういう迫害の待つている国に強制送還はしないと、こういう考え方を今日はとつているわけであります」

とはつきり答えている。更にこの発言をうけて、富田正典政府説明員は、

「……何が政治亡命であるかという定義を考えますより、その者の申立て、それを裏付ける資料、在留状況いろいろなものを判断いたしまして、これを人道的な配慮から本国に送還することが不適当であると考えた場合には、しからば法務大臣の特別裁量で本邦に在留を認めるか、あるいはその他の事情によりまして迫害の待つていると主張する本国には送還できないにしても、日本には置いておけない、しからば本人の好むところに出国させるために一時の便宜を認めることにするかというような、いろいろなことを考慮するわけでございます。したがいまして、政治亡命というものが、認定された場合に、一定の基準というものはございませんが、大臣が先ほどお答えいたしましたように、人道的な配慮に従つて迫害の待つているところには送還しないという線を基本にいたしまして人道的に配慮しておる、こういう状況でございます」

と説明している。

被告らは原告らを政治亡命者ないし政治犯罪人として認めず、退去強制令書を発付し、出入国管理令第五三条第一号によつて本国たる台湾へ送還しようとしているのであり、かくては、原告らは台湾の国民政府によつて、政治犯罪人として処罰されること明らかであり、わが国政府の国会において示した裁量の規準に全く反することとなる。従つて本件処分は裁量権の逸脱乱用である。

(ハ) 政治犯罪人ないし政治難民の保護に関する国際法規についての補論―「人権に関する世界宣言」第一四条違反

一九四八年一二月一〇日国際連合総会において採択された「人権に関する世界宣言」第一四条第一項は、

「何人も、迫害からの保護を他国において求め、且つ享有する権利を有する」

と定めている。同条項の趣旨は、第二項が非政治的犯罪の場合には保護を求めえない旨を定めていることからしても、まさに政治的迫害からの保護を他国に求める権利を定めたものと解された。

世界人権宣言については、わが国は一九五二年連合国との間に締結した、日本本国との平和条約前文において「……世界人権宣言の目的を実現させるために努力し………」として、その遵守を誓い、更に一九五二年六月国際連合に加盟を申請するに際して日本国民は国際連合の事業に参加し、かつ憲章の目的および原則を自ら行動の指針とする」旨を明記し、かつ、「日本国が国際連合憲章に掲げられた義務を受諾し、かつ日本国が国際連合の加盟国となる日からその有する総ての手段をもつてその義務を遂行することを約束するものである」との宣言を行なつた。

そして、一九五六年一二月一八日国連総会においてわが国の加盟が承認されたのに対し、重光外務大臣はわが国を代表して国連総会において、再び右申請書の文言と宣言を引用し、「日本はこの厳粛なる誓約を加盟国の一員となつた今日再び確認するものであります」と誓約したのである。

右「人権に関する世界宣言」は国連総会が国連憲章第一三条第一項b、第五五条c、第五六条の規定により有する、人種等の差別のないすべての者のための人権および基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の義務と権限に基づいて議決したものであり、特に同宣言前文末尾において、

「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準としてこの宣言を布告する」

と宣言されているのである。従つて「右宣言」は条約そのものではないが、条約に準ずる規範ないし、国連加盟国の行為の規準となるべきものであり、わが国政府としては、前記平和条約を締結したものとして、又国連加盟国として、この宣言を最大限に遵守ないし尊重すべき義務を有するのである。

然るに被告らは、わが国における政治亡命者には、わが国に保護を求める権利はなく、わが国にもこれを保護する義務がないと主張し、かつ、政治亡命者に対する特別在留許可は全く被告らの自由裁量の問題であるというのであるが、このような見解は、明らかに右宣言第一四条に反する。従つて同条に違反してなされた本件退去強制処分並びに特別在留不許可処分は、わが国憲法第九八条第二項に違反するか少くも国際連合によつて定められた基準に反する裁量として裁量権の乱用というほかはない。

(2) 蒋介石政権支配下の台湾においては、独裁的な専制政治が支配して、民主主義の基本原理が否定されており、特に特務機関による政治犯の処罰、人権侵害が甚だしく、原告両名は、このような蒋介石政権の正当性を否認し、台湾人の主権と自由の回復をめざして、これを打破することを目的とする政治団体「台湾青年独立連盟」に加入し、その有力メンバーとして目的達成のための政治的活動を行なつているものであるから、原告らが台湾に送還された場合には、死刑を含む重罪によつて処断される高度の蓋然性があることについて次のとおり述べる。

(イ) 台湾の政治的、社会的状況

蒋介石政権による台湾統治は、一九四五年八月、日本が降伏し、同年一〇月連合国最高司令官マッカーサーの命令で、中華民国政府が台湾を接収したときにはじまる。

そして、一九四九年七月中国本土において、中共との内戦に敗れたため国民党蒋介石政権は台湾にのがれ、以来、蒋介石政権の台湾支配は台湾とその周辺諸島に限定されつつも、「反共、大陸反政」を国是として、戒厳令のもと戦時体制をしいて現在に至つている。

蒋介石政権の統治機構は、建前としては、国府が中国本土の支配権を有していた一九四六年一一月制定になる中華民国憲法に依拠している。同憲法は、中華民国は、三民主義に基づく、民有、民治、民享の民主共和国だとし、主権在民を明らかにし、行政立法、司法、考試(国家考試の最高機関、公務員の試験任用等をつかさどる)監察(国家監察の最高機関として人事にかんする同意弾劾、会計審査等を行なう)の五院を設置し、この五院の調整統合機関として総統をおき、総統は国家元首の地位をしめるものとされている。

しかしながら、蒋介石政権の統治下において、右のような民主的制度は以下に述べる如く、機能を停止し、これにかわつて独裁的な専制政治が行なわれている。

(A) 選挙の行なわれていないこと

憲法上、総統及びこれを選任する国民大会代表の任期は六年、立法院委員の任期は三年であるがこれらの選挙は一九四七年以来、一度も行なわれていない。この為台湾の人口約一二〇〇万人のうち一〇〇〇万人とその大多数をしめる台湾人(あとの二〇〇万人は蒋介石と共に中国本土から移つてきた軍人、官吏とその家族の中国人である)は、この二〇年間選挙を通じて国政に参加する機会を全く奪われている。

(B) 総統の絶対専制

総統は憲法上は前述した五権の調整統合機関にすぎないが、現実には行政府の長として行政権を行使し、総統府にもうけられた国防会議は、憲法上、法律上何らの根拠もない機関であるにもかかわらず、国家のあらゆる重要事項を扱い、行政のみでなく、立法権をも行使している。又蒋介石政権は国共内戦の現時期を、動員戡乱時期と規定しているが(蒋は乱を収めること)、この間総統は「動員戡乱時期臨時条款」により、国家の緊急時には、司法、立法、行政などの各分野にわたつて、絶対の権限を行使できる「緊急大権」を有している。これによると総統は国家もしくは人民の緊急危難遭遇をさけ、財政経済の重大な変動に対処するため反乱の鎮圧に必要な兵役、労役、物資等の動員、徴用、一切の労働争議の禁止、処罰反乱を煽動する集会、言論等の処罰をなすことができ、この権限の広範な恣意的発動は台湾住民の権利と自由の大巾な侵害をもたらしている。

(C) 国政からの台湾人の排除

台湾人は選挙によつて国政に参加する途をうばわれているばかりでなく、蒋介石政権は台湾人が国政の主要な部門に参加する途をほとんどとざしている。

即ち台湾人は総続を選任する国民代表については、総数一四〇〇名中二七名、監察委員については、七〇名中四名のわずかをしめるにすぎない。総統府、行政院、司法院等の国家機関においても高級公職についている台湾人は極端に少く、軍隊においても現役軍人五〇万人のうち七〇%が台湾人といわれながら、将校は全体の三分の一位にすぎず、大尉以上はほとんどいず、指揮系統には台湾人は皆無に近い。警察においてもほぼ同様である。

従つて台湾人の中国からの移住者に対する不満は非常に強く、反乱もおこつた。

蒋介石政権はそのため、同政権に反する運動を厳しく取締り、処罰してきたのである。

(D) 人権保障の欠陥

以上に述べた点からも明らかであるが、近代民主主義政治存立の基盤である国民の基本的人権の保障についてみれば、それはほとんど無視ないしはく奪されている。

(a) 軍事裁判の存在

中華民国憲法によれば、国民は現役の軍人をのぞいて、軍事裁判を受けない権利を有するにもかかわらず、戒厳令下にあることを理由に、軍法機関は戒厳法により通常裁判所が行なうべき事件の裁判を行なつている。現在軍法会議の管轄は、軍人の犯罪ばかりでなく、刑事事件のうちでも、共産党関係の犯罪、匪賊、叛乱、強盗、軍人と非軍人が共犯となつている密輸犯罪、公共危険および治安妨害等の犯罪で治安に重大な危害を及ぼすものにまで及び、後述する懲治叛乱条例等の規定する政治犯罪は専ら軍法会議の管轄である。

軍法裁判は一、二の例外を除いて公開されたことはなく、従つて台湾住民は、どのような嫌疑でどのような裁判が行なわれたかを知ることはできない。裁判に先立つ逮捕等の身柄拘束は令状なしで行なわれ、近代民主主義国家における裁判の手続的保障も全くない。

司法裁判所は重大な犯罪についての裁判権をほとんどうばわれ、台湾住民は公正な裁判所における公正な裁判を受ける権利をほとんど与えられていない。

(b) 反政府的言動の苛酷な抑圧

前述の如く、蒋介石政権は二〇年余も選挙を行なわず、従つて台湾住民多数の支持を得ているとはいえず、特に大多数をしめる台湾人を国政から排除しているため、その政府批判や反政府的言動には極めて敏感とならざるを得ない。そのため、これらを広範に取締るための苛酷な特別法が制定され、極めて恣意的な運用がなされている。

特に、一九四七年に制定施行された懲治叛乱条例は別紙のとおりであるが、同法第二条第一項は、刑法第一〇〇条の規定する内乱罪に対する刑(有期徒刑七年以上、首謀者は無期徒刑)を重くして、これをすべて死刑に処するとともに、

第四条等七号、叛徒を包し、蔵匿したものは死刑又は無期徒刑又は一〇年以上の有期徒刑に処する。

第五条、叛乱組織または集会に参加したものは無期徒刑または一〇年以上の有期徒刑に処する。

第七条、文字、図書、演説をもつて、叛徒に有利なる宣伝をしたものは、七年以上の有期徒刑に処する。

等規定して「叛徒」、「叛乱組織または集会」「叛徒に有利なる宣伝」などというあいまいな不明確な構成要件をもつて、すべての反政府的言動を取締ることを目的としている。そして軍法会議にはこれらの規定を恣意的に拡張解釈し、蒋介石政権に少しでも不利な言動はすべて政治犯として厳罰に処してきた。

即ち、政府を批判する政党、反政党はすべて「叛徒」とされ、反政府的意見や政府の政策批判が表明される組織や会合は、共産党の組織や会合ばかりでなく、すべて「叛乱組織又は集会とされ、又、現在国府は中共と戦争状態にあるので、国府に対する批判、攻撃は自動的に「叛徒に有利なる宣伝」というふうにされるのである。

軍事法廷は極く少数の例外をのぞいて、その審理や判決を公表しないが、公表されたものの中から、いくつかの実例をあげると、

1 雑誌「自由中国」を通じ、国民党の専制に反対して、有力な反対党の育成をはかり、台湾政治の民主化と法治を主張した雷震が叛乱煽動罪で懲役一〇年に処せられた(一九六〇年)。

2 台湾の独立を主張する宣言を起草、所持していた台湾大学政治学教授彭明敏外二名が、「非法な方法でもつて国憲を変更し、政府を転覆しようとする予備をなした」として懲治叛乱条例第二条第三項違反で起訴され、懲役一〇年に処せられた(一九六五年)。

3 一九五五年大学生時代に演劇活動を行なつた蔡徳本が「演劇活動を行ない穏やかならぬ書物を読んだ故に、或る思想傾向が無きにしも非ず」として、裁判は、無罪となりながら二年間拘禁され、洗脳を強いられた。

等のケースがある。これらは何ら実力行動に訴えたものではなく、いずれも言論にとどまるものであつたが、処罰の対象となつたのであつて、ここには言論の自由、政府批判の自由は一切その存在を許されていないのである。

(c) 尨大な秘密警察

前述した如く、蒋介石政権は台湾人の民主的意思に存立の基盤を有していないため、民衆の不満や批判、反政府運動を警戒弾圧し、きびしく治安を維持するため、尨大な治安維持機構(秘密警察)を保持することを迫られている。

台湾における治安維持機関は尨大かつ複雑で、さまざまの系統にわかれ、国防会議、国家安全局所属警備総司令部、国家安全局国防部情報局、司法行政部調査局といつた機関が数多く並存し、特務総数は一説によれば、パートタイムの通報員を含めると五〇万人にものぼるといわれ、これらがすべて蒋介石政権に対する批判や政府活動や言論を監視し、取り締つている。

これらの中でも最高の治安機関は警備総司令部であり、台湾島内の反国府分子に対する弾圧と粛清を最も重要な仕事としている。前述した司法院とは別個に非公開の軍事裁判を行なう軍法処を有し、政治犯を処刑し、収容する強制収容施設を有するのもこれである。

警備総司令部が逮捕や判決を公表することは少く、やみからやみへ処断されることが極めて多い。台湾人の行方不明が数万にのぼるといわれるのはこれによるものといわれている。因みに原告林啓旭の兄は一九五二年九月逮捕状もなく逮捕され、家族は二年後になつてはじめて「叛乱罪」で懲役一二年に処せられたことを知り、従弟二名は特務機関によつて逮捕され、死刑にされたが、家族がこれを知つたのは処刑後で犯罪事実も不明のままである。

この他にも理由も容疑事実も不明のまま逮捕され、正式裁判をうけることもなく、数年もの長きにわたつて政治犯監獄に抑留された事例は数多く(劉家順、許肇峰のケース)、最近では東大留学中、中華民国留日同学会主催の帰国訪問団の一員として、台湾を訪れたが予定期日になつても帰日せず理由も判明しないまま治安機関に身柄を拘束されていると伝えられる劉佳欽、顔尹談両名のケースがある。

このような治安機関の権限の前に本来の警察はこの権限を奪われ、実質的には警備総司令部に従属しているが、その中で台湾住民の基本的人権をはなはだしく侵害するものに戸口査察と浮浪者の取締りがある。

警官は各戸を訪問して戸口査察を行ない、その際台湾住民がいつも所持してなければならない国民身分証をあらためる。これをもたないで外出すると、いつまでも拘留されて、始末書をとられ、その家長が身分証をもつて本人を引取りに行かなければならない。

又、浮浪者の取締りのために住民は旅行、移動をする際には、いちいち警察に登記することを要求されるし、警察は正規の手続をふまないでよい浮浪者や犯罪者の取締りに名をかりて、反国府的要注意人物を「外島管訓」として島送りにし、又誤つて無事の市民を逮捕することも多い。

このようにして警察は住民の生活のすみずみにまで監視の目をはりめぐらせて、反政府的言動に警戒の目を光らせている。これらによる人権侵犯事件はひん発している。

(ロ) 台湾独立運動と台湾青年独立連盟

以上に述べたように、蒋介石政権は大多数をしめる台湾人の意思を無視して、民主主義の基本原理を否定した独裁的な専制政治を行なつている。

台湾青年独立連盟等がめざす台湾独立運動は一言でいえば、このような外来の独裁権力の正統性を否認して台湾人の独立と自由を求めるものである。

(A) 台湾独立運動の系譜

このような台湾独立運動は一九四七年のいわゆる二・二八反乱のあと、香港へ逃げのびた知識人や指導者達によつて、一九四八年結成された「台湾再解放連盟」を源流とする。現在台湾独立運動は台湾においては、蒋介石政権の弾圧が前述の如く余りにきびしいため存在できず、海外でつづけられている。東京には、廖文毅を指導者として「台湾共和国臨時政府」の看板をかかげた一団があり、アメリカにおいては留学生がU・F・I(United Formosans for Independence)を組織し、アメリカ世論および国連に対する台湾独立のアビールを行なつた。

その後アメリカ各地、カナダ等への台湾留学生により台湾独立運動を目ざす団体が次々と結成され、一九六五年これらのすべてが統合してU・F・A・I(United Formosans in America for Independence)をつくり、運動をつづけている。尚欧州にも同様の台湾独立をめざす運動が組織されている。

(B) 台湾青年独立連盟の活動

日本における留学生で台湾独立を目ざすものが、一九六〇年二月、自らの組織をつくつたのが台湾青年独立連盟の前身である台湾青年社である。台湾青年社は王育徳(弘文堂出版「台湾」の著者)を代表者とし、機関紙「台湾青年」を発行して、台湾独立を訴え、一九六二年には国連などの場での国際宣伝にも力を入れるため、英文機関紙Formosan Quarterly(後にIndependent Formosanと改称)を創刊し、同年八月頃には台湾島内の組織活動にも着手した。

一九六三年五月には組織拡充にともない、最高決議機関として中央委員会を設け、同時に台湾青年会と改称した。中央委員会の下には組織部、広報部、国際部、資金部、総務部が設けられ、この頃になると会の組織力は在日留学生の間にくまなく滲透していた。

一九六五年九月には、再度台湾青年独立連盟と改称し、連盟綱領を改めて公表し、連盟の独立運動の理念を明確にし、同年一二月には、中央委員会において、対台湾島内工作に重点を置く旨の決議がなされて、対島内工作に力が入れられるようになつた。

台湾青年独立連盟の現在における活動は右に述べた如く、台湾島内、日本、海外等における機関紙やパンフレットによる宣伝、啓蒙活動、組織工作、台湾における政治犯の救出活動等多岐にわたつているが、日本における活動はデモ等を中心とする宣伝、啓蒙活動、組織強化活動等の合法活動に限定されている。

(C) 台湾独立運動に対する評価

前述の如く、中国人である蒋介石政権が戦時体制の下、台湾人の意思を無視した非民主的圧制を行なつているという事実をふまえて、日本やアメリカの有力なジャーナリスト、学者の間には、台湾の進むべき道は民族自決の原則に立つて台湾人の意思で決めるべきだとする見解が強い。この見解は台湾人が熱心に独立を望んでいるという事実のうえに立つて台湾独立運動の正当性を認めるものである。

原告らの運動もそのようなものとしての一定の評価を受けているものであり、被告らの台湾独立運動なるものは「……組織らしい組織ももたない程度の集りで……真しな政治運動ではないものである」とするのは、前述のところから明らかなとおり全くの誤りであるおみならず、わが国治安当局すらも、台湾青年独立連盟を称して「……中華民国政府をてん覆し、台湾に革命政権を打ち樹て、台湾の独立を図ろうとする団体で……きわめて秘密結社的性格の強い政治活動団体であり……」といい、同連盟の行なわんとした蒋経国来日反対のデモを許可することは「外国の内乱を醸成する行動が組織されることを阻止すべき国家の義務に反する」とまでいつているのである。

(D) 原告両名の活動

このような台湾青年独立連盟の政治活動に原告林啓旭は、昭和三八年頃から原告張栄魁は昭和三六年頃から加わり、前記の文筆運動或いは連盟主催の数多くのデモ等への参加等さまざまの組織活動をとおして、活発な活動をつづけてきた。

そして現在両名はいずれも同連盟の中央委員、中央執行委員であり、原告林啓旭は財政を、原告張栄魁は総務を担当して、同連盟の中でも枢要の位置をしめている。

(ハ) 結び――原告らが台湾に送還された場合に処刑される惧れ。

右のような原告両名の台湾独立運動は前述した蒋介石政権下の政治犯の取締り体制と処罰の実状から見て、叛乱罪に該当することは明白であり、台湾へ送還された場合には懲治叛乱条例によつて極刑をもつて処罰されることが明らかである。

原告両名が政治犯であつて、政治犯不引渡の原則が適用されるべき所以である。

(3) 本件裁決が裁量権の濫用であるとの主張に関連して、原告らの日本統治下における生い立ちと、台湾青年独立運動に参加するに至つた経過について、次のとおり述べる。

(イ) 原告張栄魁について

(A) 原告張栄魁は一九二七年一二月一五日、日本統治下にあつた台湾に生れ、中学の終りまで、日本臣民として日本語による、教育勅語を根幹とした教育を受けた。

一九四五年五年制中学を終了すると、折りから激烈となつた太平洋戦争に日本臣民として学徒召集を受け、日本軍の指揮下できびしい軍事作業に従事した。

しかしながら、このような教育を受け、軍役に服した原告の日本臣民としての地位は、日本が敗れ、ポツダム宣言を受諾したことによつて失われた、そして日本が台湾を放棄した後は台湾がその国際法上の帰属も不明確なままに、蒋介石の占領統治下に入り、その政治的社会的環境が一変した。

(B) 台湾を統治するようになつた蒋介石は前記(2)の(イ)において詳述した如き独裁的な専制政治を行ない、台湾においては基本的人権等の保障は全くないような政治が支配するようになつた。

同原告は次第にこのような蒋介石政権に対して反感をもち、台湾人による台湾政府の樹立こそが、自分たちの唯一の政治的立場であると考えるようになつた。

特に一九四七年二月二八日、蒋介石政権の圧制に反対して立上つた台湾人の大規模な叛乱(いわゆる二・二八事件、一時台湾を制圧したが、中国本土からの蒋介石の援軍に打ち破られ、徹底的な虐殺が行なわれた。この時虐殺された台湾人の数は数万人といわれる。)や、その後一九四九年六月台湾師範大学の学生が警官に暴行を受けたことに端を発し、学生達が大規模な反政府デモを行ない、これが武装警官による徹底的弾圧を受けた事件等は同原告に決定的な影響を与えた。

個人的にも同原告が来日前在職していた台湾省交響楽団の要職が中国人によつて独占され、腐敗しきつていたのを同原告が追及したのに対し、逆に同原告が、厳重な戒告を受けたこと、一九五三年に同原告が理由もなく憲兵から暴行を受けたこと等は、蒋介石政権に対する憎しみと反感を決定的にした。

(C) 同原告が一九六〇年音楽の勉強の為に、来日したのはそのような圧制のない自由の国日本への期待があつたことの他に、日本はかつて自分がその国民としての教育を受けた国でもあつたからであつた。

来日した同原告は、まもなく台湾人の独立と自治を目指して蒋介石政権打倒のための政治活動を行なつている台湾青年独立連盟を知り、その目的に賛同してこの運動に加担するようになつた。当初は秘密盟員として、一九六四年からは、公開盟員として、台湾島内との連絡・通信、わが国における機関紙の発行、さまざまの組織活動等を通じて、台湾青年独立連盟の政治活動に積極的役割をはたし、現在は同連盟の中央委員兼中央執行委員となつているものである。

(ロ) 原告林啓旭について

(A) 同原告は一九三五年一月一日台湾に生れ、一九四五年日本が太平洋戦争に敗れるまでの四年間日本統治下の台湾の国民学校で原告張栄魁と同様日本臣民として日本語による日本教育を受けた。

しかし日本の敗戦により同原告が日本人たるの地位を失い、台湾の政治的・社会的環境が一変したことは前述のとおりである。

(B) 前述の一九四七年の二・二八叛乱と虐殺は未だ幼い原告林啓旭の心にも蒋介石をはじめとする中国人の統治に対する強い敵愾心をうえつけた。

特に同原告の家族や近親者が、その思想的立場の故に蒋介石の特務機関に相次いで逮捕されたうえ、処刑されたことは、同原告の蒋介石政権に対する憎しみを一層抜き難いものとした。

即ち一九四八年同原告の従兄許石柱が、一九四九年同じく従兄の劉水竜が、いずれも思想的に問題があるとして、犯罪事実も不明のまま、政治犯の疑いで秘密軍事裁判にかけられ、叛乱罪で死刑に処せられた。家族への通知は処刑後であつた。

更に一九五二年には実兄の林啓文が逮捕状もなく、逮捕機関も不明のまま逮捕され、二年後になつて、ようやく叛乱罪で一二年の懲役に処せられたことが判明した。いつどのような裁判が行なわれたのか、どのような犯罪事実がありとされたのかも不明のままであり、同原告が一九三六年米日する時には兄は未だ軍事監獄に入れられたままであつた。

このような体験を持つ同原告は、法律を勉強して少しでも台湾人の人権を守るべく、一九四五年から四年間、台湾大学の法科に学んだ。

(C) そして圧制のない日本で更に法律の研究をつづけることを希望して一九六三年に来日した。

同原告の明治大学大学院における研究テーマは「台湾の国際法上の地位」であり、卒業に際しては、「台湾をめぐる国際法上の諸問題」の論文を書いた。

前述のような体験をもつ同原告が台湾青年独立連盟の存在を知るや、これに共鳴してその運動に参加するようになつたのは自然のことであつた。同原告は来日後間もなく台湾青年独立連盟に加盟して、既述の如く積極的にその政治活動をつづけ、現在中央委員兼中央執行委員となつている。

(ハ) 結び

以上のような生い立ちと体験から日本へ留学後台湾独立運動に加担し、その積極的役割をはたすようになつた原告両名が台湾へ送還されれば厳罰に処せられることは明らかである。

更に見落してはならないのは、原告両名はいずれも幼少の一時期、日本統治下の台湾にあつて、日本国民としての教育をうけ、原告張栄魁の如きは日本の軍役にまで服しているということである。

今被告は、このような原告らを、台湾が蒋介石の統治下に服するようになり、原告らが、日本国民たる地位を有しなくなつた外国人であるとして、生命の危険ある地へ強制送還しようとしているのである。

特別在留許可を認める法務大臣の裁量は本件原告らの場合にこそ働らくべきなのである。

(4) 原告両名が台湾に送還された場合、死刑を含む重罪により処罰される高度の蓋然性があるとの主張の補促として、台湾における特務機関による政治犯人処罰の実情を次のとおり述べる。

(なお劉佳欽、顔尹謨両名のケースについては、原告は既に、前記(2)(イ)(D)において触れたが、以上においてさらに若干詳しく述べる。)

(イ) 劉佳欽、顔尹謨両名の事例

劉佳欽、顔尹謨両名は、東京大学に留学していた台湾出身の研究生であつて、劉は農業経済を、顔は憲法を専攻していたものである。

右両名は、東大留学中の一九六七年夏、中華民国留日同学会主催の一九六七年度夏季帰国訪問団の一員として台湾に帰国したが、同年八月下旬から消息を断ち、予定期日になつても帰日せずにいたところ、右両名は治安機関に身柄を拘束されていると伝えられるようになつた。

しかし、その拘束の理由と場所は全く判らぬ状態にあつた。

その後翌六八年に入つて、ようやく劉、顔両名が台市議員を含む七名と共に陸海空軍刑法中の叛乱罪に関する法条により軍事法廷に起訴され、かつ死刑を求刑された事実が判明した。

右起訴にかかる犯罪事実は、劉、顔ら九名が「台湾青年独立連盟」と連絡をとりつつ台湾独立を企てたというものであつて、具体的には、日本における「台湾青年独立連盟」との接触(その起訴状には、同連盟委員長の辜寛敏および同連盟員である廖春栄の名前が登場している。)、同連盟の刊行物である「独立台湾」の配布をはじめとして、台湾独立の反対者および政府首脳の暗殺計画、高雄練油廠および重要橋梁の爆破計画、台湾独立運動の宣伝パンフレット、ビラ、機関誌等の作成および配布、独立運動のための組織「台湾青年団結促進会」の結成等を内容としている。

(ロ) 陳玉璽事件

陳玉璽は台北大学で経済学を学んだ後、一九六四年よりハワイ大学に留学していた台湾出身の学生であつて、成績優秀のため一九六六年から一年間同大学経済学部の助手を勤め、翌六七年三月には、さらに同大学より大学院博士課程進学が認められていたものであるが、本件台湾の政府が、同人がハワイにおいてベトナム反戦活動をしているアメリカ人と接触したためか、ハワイ滞在を認めなかつたため、やむなく勉学を中断してハワイを離れ、その帰路の途中日本に立寄ることとなり、同年八月一七日観光ビザ(二箇月間の期限)により日本に入国した。

陳は、日本入国後しばらく観光旅行をしていたが、ハワイで中断した勉学の意欲が再び燃えあがり、それを日本において続けようと考え、在留期間を更新し、法政大学大学院入学を目指して勉強を開始した。

なお同人が日本で勉強を続けることを希望したのは、ひとつには前記のごときハワイでの交友関係のため、帰国すれば相当の処罰をうけるであろうことを恐れたためである。

しかしながら、陳の在留期間は同年一二月一五日までであり、同月一六日からは不法残留となつたため、その違反調査が開始されたが、翌六八年一月二三日には、収容令書発付、執行後直ちに陳は仮放免となつた。

しかし、その仮放免の喜びも束の間、仮放免後二過間余りしか経たぬ翌二月の八日、東京入国管理事務所に出頭した陳に対し、法務大臣に対する異議申出を棄却する旨の裁決の告知がなされるとともに、主任捜査官より退去強制令書が発付され、直ちに身柄を拘束収容され、翌九日午前九時半頃、特務機関の待つ台湾に向けて送還されるに至つた。

この突然の退去強制は、陳の日本における関係者、知人は勿論のこと、本人すら夢にも思わなかつたものであつて、しかも前示二月八日午後に右令書を発付して陳を直ちに収容し、翌九日午前九時半頃には右令書の執行を完了したというように、異例の速さで行なわれたものであつた。

陳の「突然の帰国」に驚いた関係者が、台湾にいる父親の陳欽に連絡をとつたところ、右父親すら陳がまだ日本に滞在しているものと思つていた状態であり、陳の行方は全く不明であつた。

そこで父親の奔走が始まり、一箇月後にやつと陳が軍法処(軍事法廷)の留置所に拘束されていることが判明した。同人は強制送還後直ちに身柄を拘束されていたわけである。

そして陳は、同年六月一八日、政府顛覆を企てそれを着手実行したとして、懲治叛乱条例第二条第一項(同条の法定刑は死刑のみである。)に該当するものとして、軍事法廷に起訴され、死刑および財産の没収の求刑を受けた。

右起訴にかかる犯罪事実は、陳がハワイ留学中に中共の出版物を読み、思想的に中共に傾いたうえ、日本において、中国大陸に渡ることを企てたり、中共系出版社「大地報」に勤務し、その出版物「大地報」に叛徒に有利な宣伝文章を書いたというものである。

陳は特務機関による取調べの際、拷問を受け、自供書の作成を強制されたが、軍法廷においては、提出された自供書は拷問により作成されたものである旨を述べて犯罪事実を否認した。

右の事実が漸く日本、米国の知人に伝わるや、陳の救命のために多くの知識人が蒋政府にアッピールをすると共に、わが国入管当局の非人道的強制送還の方法に対し、遺憾の意が表せられ、国際的な問題になつた。そして結局同年八月一〇日、陳は懲治叛乱条例第七条により「文字でもつて叛徒に有利な宣伝をなしたもの」として、徒刑(禁固)七年の判決を受けた。

(ハ) 結び

以上述べた二つの最近の事例からしても、台湾においては、政治犯の処罰は過酷であつて、しかも手続的保証に欠けて、懲治治叛乱条例等の治安法令は、その構成要件の曖昧さのため極めて恣意的に運用され、さらに特務機関が暗躍することにより、蒋政権反対者は秘密裡に葬り去られている。ということは明らかである。

しかも劉、顔の事例においては、起訴事実中に原告らの所属する「台湾青年独立連盟」およびその指導者との接触が含まれており、このことは原告らへの迫害の危険を具体的に物語つている。

従つて、台湾政府駐日大使館の一片のギャランティーレターがあるとの理由で、原告らの処罰の蓋然性が低くなるということは全く予想できず、そのような政治的儀礼的な一紙片によつて、地球より重き人の生命についての判断を左右することは許されないというべきである。

四  右反論に対する被告らの認否および再交論

(1)  右反論のうち(4)の主張事実については次のとおり認否し、その反論についてはすべて争う。

(イ) 劉佳欽、顔尹謨両名の事例

劉佳欽 昭和四二年四月四日、国費外国人留学生として本邦に入国、東京大学大学院農学系研究科農業経済学専攻の研究生、同年六月台湾向け再入国許可を受け、同月一三日出国した。

顔尹謨 昭和四一年一二月四日、私費留学生として本邦に入国、東京大学法学部の研究生、昭和四二年六月台湾向け再入国許可を受け同年七月一日出国した。

右両名が本邦に再入国しなかつたことは、認めるが、その余は不知。

(ロ) 陳玉爾事件

陳玉爾は、昭和四二年八月一七日本邦に入国(在留資格、管理令四条一項四号「観光客」)、同年一〇月六日、法政大学にて日本経済を研究中であることを理由に在留期間の更新を申請、同年一一月二一日右申請に対し、期間内に出国することを条件として更新許可が与えられた。なお、その際在留期間の更新許可は、今回に限る旨を同人に伝えた。

陳玉爾は同年一二月一五日を経過するも出国せず、本邦に不法に残留したので(在留期間更新の許可申請もせず)、同月一八日より違反調査を開始し、昭和四三年一月二三日収容令書発付、同年二月二日棄却裁決、同月八日退去強制令書が発付された。同日自費出国許可がなされ、翌日午前九時三九分羽田発CAL八〇一便で台北向け、出国した。

その余の事実は、不知。

(2)  世界人権宣言の効力に関する再交論として次のとおり述べる。

世界人権宣言は、国際法上の拘束力を有しない。

原告は、世界人権宣言は、条約に準ずる規範ないし国連加盟国の行為の基準となるべきものであり、右宣言第一四条に違反する本件処分は憲法第二項に違反するか少くとも裁量権の濫用というほかはないと主張する。しかしながら、世界人権宣言は、条約として結ばれたものではなく、国際法上の拘束力を持たないものである。このことは、宣言が何ら具体的実体法的な規定ではなく、抽象的な倫理的基本法則から成り立つていることからも明らかであるが、その成立の経緯をみれば、もはや疑問の生ずる余地はないものと考える。

即ち、国連憲章の人権尊重・擁護に関する規定は甚だ曖昧かつ不充分であるので、その内容を詳細に規定し、実施規定を作ることは憲章成立のときから将来の課題とされていた。そこで第六八条に基づいて設立された人権委員会は、当初世界人権章典を作ろうとし、一九四七年草案起草委員会を設けて人権規約草案を検討した。しかるに人権章典が単なる原則の宣言に止るべきであるとの意見と法的拘束力をもつべきであるとの意見が対立してまとまらないので、結局単一の人権章典でなしに、まず最初に広範囲に人権の内容を規定した法的拘束力を持たない人権宣言と一定の人権の尊重を条約のかたちで義務づける人権規約を作り、さらに規約に規定された人権の国際的保障を支えるための実施措置を定めることとした。一九四八年人権委員会は、宣言起草委員会の手になる草案(ジュネーブ草案)につき検討し、前文を付し、その内容を簡潔にして同委員会としての確定案を作成し、経済社会理事会は、同年九日同案をそのまま採択し、第三回国連総会に提出せられた。総会では各国代表からそれぞれ修正案が提出され、激しい検討の後、同年一二月一〇日この宣言は法的拘束力をもつものではないとの諒解のもとに、賛成四八国、棄権九国反対なしで総会決議の形で採択されたのである、即ち、各国の代表の大部分は、この宣言はかれらの国家および政府に対し法的拘束力をもつことに反対し、わずかにフランスとベルギーの代表がこの宣言の中にある程度の法的拘束力を認めようとしたにすぎない。

そこで総会議長は、ここに採択された文書は各国に対して基本的人権の実現のために行動するように拘束する規定ではないことを認めると同時に、なおかつそれが人類社会の偉大な進歩に向つての前進であると信ずると述べたのである。なお、ルーズベルト人権委員会議長も委員会においてこの宣言の効力について何ら拘束力をもつものでない旨を述べている。

なお前述の人権規約は、その草案と同じく一九四八年の人権委員会によつて採択され、一九五〇年各国の意見回答とともに総会に提出されたが、再検討のため人権委員会に回付され、その後、一九五二年、一九五四年の人権委員会において検討され、その後一九六六年一二月一六日第二一回国連総会において採択されたが、加入または批准した国はない。

以上述べたように、世界人権宣言は実定的な国際法としてではなく、諸国家の向うべき共通の目標を示したもの、換言すれば、倫理的な効力をもつものとして、ほとんど満場一致に近い支持の下に承認されたものである。その成立経緯からしても、法的拘束力をもつ憲章たらしめようとしたならば、この人権宣言は、有力な反対によつて成立を阻止されたであろうことは明らかである。

世界人権宣言が法的拘束力をもつものでないことについては学説においても異論を見ないところであつて、原告らの主張は、独自の見解に立つて被告らの処分の効力を争うものであつて、理由がない。

註 世界人権宣言の法的格等についての文献

尾高朝雄「世界人権宣言と自然法」

田中先生還暦記念自然法と世界法(特に八二頁以下)

穂積万亀子「基本的人権と国際法」

横田先生還暦祝賀現代国際法の課題(特に四一九頁以下)

田畑茂二郎「人権と国際法」

法学理論一五八(法学体系二部)(特に一〇六頁以下)

大平善梧「基本的人権と国際法」

国際法講座二巻(特に二七頁以下)

横田喜三郎「国際法Ⅱ」

法律学全集五六巻(一六三頁以下)

第三  証拠関係〈略〉

理由

一原告両名がいずれも台湾人であるところ、東京入国管理事務所特別審理官より、原告張は昭和四〇年四月二六日以降、原告林は昭和四一年四月下旬以降、本邦に不法に残留するものであるとの告知を受け、直ちに被告大臣に対して異議の申出をしたところ、いずれも昭和四二年八月一四日、右大臣より異議申出は理由がない旨裁決され、同月二五日被告審査官により原告両名に対し、それぞれ退去強制令書が発付されたことは当事者間に争いがない。

二、原告らは被告大臣のした本件各裁決は違法であるから取消さるべきであり、また被告審査官のした退去強制令書の発付処分は、本件各裁決の違法を承継するものであるから裁決とともに取消さるべきであると主張する。

そこで本件各裁決の行政処分としての性質を考えてみるのに、出入国管理令の定めるところによれば、右各裁決はいずれも第一次的には、その原処分である「特別審理官によつて誤りがないと判定されたことによつて維持された入国審査官の認定」の当否を審査する処分であると解せられる(出入国管理令第四七条ないし第四九条参照)。尤も、同令第四九条第一項によれば、恰も法務大臣に対してなす異議の申出の対象は、特別審理官の「判定」であつて、入国審査官の「認定」ではないかのごとくみえるが、同条第四項によれば、法務大臣が異議の申出を理由があるものとして裁決した場合には、容疑者は釈放されることとなつているところよりすれば、法務大臣が審査する事項は、入国審査官の認定の当否であると解するのが相当である。ところで行政事件訴訟法第一〇条第二項は、「処分の取消しの訴えとその処分についての審査請求を棄却した裁決の取消しの訴えを提起することができる場合には、裁決の取消しの訴えにおいては、処分の違法を理由として取消しを求めることができない」と定めており(なお、ここにいう「処分の取消しの訴え」および「裁決の取消しの訴え」の意義については、それぞれ同法第三条第二項および第三項を参照)、一方本件の原処分と目すべき入国審査官の認定に対しては、抗告訴訟の提起を禁じた別段の規定は存しないから、本件の被告大臣に対する各請求のうち、入国審査官の認定を是認する判断を争う部分は、いずれも右の行政事件訴訟法第一〇条第二項に定める裁決の取消しの訴えの性質をもつものというべきである。そうだとすれば、本件請求において本件各裁決のうちの入国審査官の認定の適否の判断を争う部分については、原処分の違法を理由としてこれを攻撃することは許されないものといわなければならない。

ところで法務大臣の右裁決、とくに異議の申出を棄却した本件のごとき裁決には、通常の裁決の場合とは異なり、右にのべた原処分の当否の判断のほかに、いわば第二次的な判断が含まれているとみるべきである。即ち、出入国管理令第五〇条によれば、法務大臣は、原処分にはかしがなく、異議の申出は理由がないと認めた場合において、改めて容疑者に対し、一定の要件が充されている場合には、特別に在留を許可することができるものとされているのである。尤もこの点に関し、観念的には裁決はあくまで異議申出の当否の判断のみにかかわる処分であると考え、一方、出入国管理令第五〇条によるいわゆる特別在留の許否の判断は、これとは全く関係のない別個独立の処分であるとみることもできないことはないであろう。しかし、出入国管理令施行規則第三五条によれば、異議の申出の手続として、退去強制が甚だしく不当であることを理由として申出る場合には、「退去強制が甚だしく不当であることを信ずるに足りる」資料を提出すべきものとされているが、このような資料は、その性質上、特別在留の許否に関する資料とみられるものであり、異議の申出においてかかる資料の提出が要求されていることは、右手続内において特別在留の許否をも判断するものであるとの建前を示すものと考えることができるし、また、実質的に見ても、元来、右の異議の申出の手続は、容疑者にとつては、出入国管の行政当局に対して行なえるいわば最後の防禦手段であつて、この申出によつて、どのような名目にせよ、目前に迫つた退去強制手続を免れることを求めるのが実情であるから、むしろ、右の異議申出の中には、暗黙のうちに、最悪の場合は特別在留許可をも求める旨の申請が含まれていると見るのが相当である。してみれば、以上のような諸事情から考えるならば、特別在留の許否についての判断を、裁決と別個のものとして考えるべきではなく、むしろ、裁決の内容の一部として考えるのが相当である。そうであるとすれば、かりに本件で特別在留を許可しなかつた被告大臣の判断にかしがあるとすれば、異議申出に対する棄却の裁決自体が取消しを免れないものとせざるをえないのである。なお、出入国管理令第五〇条第三項は、特別在留許可がなされた場合の容疑者の身柄の扱いについては、右の許可を、異議の申出が理由がある旨の裁決とみなしていることも、右の実情に呼応するものといえよう。

かようにして、右の特別在留の許可は、法務大臣にのみ認められた固有の権限であるから、裁決取消しの訴えにおいて右の許否に関する判断のかしを指摘して争うことは、行政事件訴訟法第一〇条第二項の禁止にふれるものでないこと勿論であるが、右の判断は、被告指摘のとおり裁量行為と解すべきであるから、「裁量権の逸脱、濫用」があつたときに限り取消しが許されるものである(行政事件訴訟法第三〇条参照)。

右にみたような棄却裁決の有する特殊性を考慮するならば、結局、原告らが本訴において本件各裁決の取消しの理由として指摘した事実のうち、特別在留許可を与えなかつた被告大臣の判断に裁量権の逸脱、濫用ありと指摘する部分を除くその余の部分は、すべて本件裁決の違法事由として主張することの許されないものといわざるをえない。何となれば、原告らが指摘するその余のかしは、すべて原処分(入国審理官の認定)に関するかしに属するものと解すべきだからである。

以上のとおりであるから、以下においては、本件各裁決に裁量権の逸脱ないし濫用があつたか否かの点に限つて判断することとする。

三原告張の生いたちならびに現在の政治的活動について

〈証拠〉によれば、原告(以下この項では原告張を単に原告と表示する)は、昭和二年に台湾台南州虎尾郡西蝉街に生まれ、同地の小学校を卒業した後、台南の長栄中学校に入学し、昭和二〇年三月に同校を卒業した。卒業と同時に日本政府により太平洋戦争のため召集を受け、関東軍に編入されたが、同年八月終戦となり帰郷した。終戦後は、台湾が中華民国の領土とされ、蒋介石政権によつて統治されるに至り、原告ら、いわゆる台湾の元住民はすべて日本国籍を失ない、中国人として扱われるようになつた。原告は昭和二一年台北の師範大学音楽科に入学し、四年間主として声学とバイオリンを学び、同大学卒業後は、台北の建国中学で教鞭をとつたが、間もなくリューマチに罹り、二年余り故郷で療養した。ついで、昭和二九年頃から昭和三五年に至るまでの間、台湾省教育庁の交響楽団に入団した。原告は、右の建国中学および交響楽団に奉職していた間に、しばしば体験した蒋介石政権の台湾に対する統治政策、とくに治安対策を、かねがね快からず思い、これに対して批判的な目を向けていたが、昭和三五年頃には「台湾人の幸福は、蒋介石政権を打倒する以外にない」と確信するに至り、音楽を学ぶとの名目で台湾をのがれて来日し、東京都国立市の国立音楽大学に入学した。当時、日本には、原告と志を同じくする人々による台湾青年会と称する台湾の独立を標榜する組織があつたが、たまたまこれを知つた原告は、同会の趣旨に賛同して、その秘密会員となり、ついで、昭和三九年頃からは正式に公開の会員となつた。この組織は、その後発展して台湾青年独立連盟と名称を変え、さらに世界各国の同志が結合した台湾独立連盟の日本本部と改組されて今日に及んでいるが、原告は当初より右連盟の総務部長、中央委員、中央執行委員等の役員として活躍し、現在は日本本部の中央委員をつとめている。右組織は一貫して、蒋介石政府を打倒し、台湾人による台湾の独立を目標とし、わが国においてもこの目標にそつた集団示威運動を行なつたり、機関誌として「台湾青年」・「台湾」等を発行してその思想の宣伝につとめているが、原告は右組織の一員として、しばしば前記集団示威運動に参加し、また、「台湾青年」第六六号に「芸術文化の砂漠―台湾」と題する論文を、同第七二条には「所謂台湾地方自治」と題する論文を、そして同第七七号には「台湾独立青年行進曲」なる自ら作詞作曲にかかる行進曲をそれぞれ投稿し、(これらの投稿の事実はいずれも当事者間に争いがない。)、その他、台湾に向けては、たえず独立運動のよびかけを行なう等政治的活動に従事している。以上の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

四原告林の生いたちならびに現在の政治的活動について

〈証拠〉によれば、原告(以下この項では原告林を単に原告と表示する。)は、昭和一〇年一月一日、台湾の嘉義に生まれ、同地の小学校および中学校を卒業した後、台南の長栄高校を経て台湾大学法学院に入学し、昭和三三年に同学を卒業した。右卒業後一年半ほど兵役に服した後、昭和三五年一〇月から役人として雲林県の民政局行政課に勤務したが、翌年六月退職し、昭和三七年六月留学生試験を受けて合格し、その翌年四月日本への留学を許されて来日し、東京都の明治大学大学院に入学した。

ところで、原告が右のように法律学を研究し、日本に留学を志すようになつた動機は、次のようなことによるのである。即ち、原告の兄林啓文は、昭和二七年頃のある夜、台湾において突然逮捕され、軍事法廷で反乱罪により懲役一二年の刑に処せられたのであるが、後に原告らの調査したところによると、右処罰の理由は、林啓文が高校時代に加入していた学校の音楽クラブのリーダーが思想犯として処罰され、これと交際していたというだけのことで林啓文もこれに連座したものであるということであつた。この事実は、当時高校生であつた原告に強い衝撃を与え、その結果原告には人権を護る上においては、是非とも法律学を研究しなければならないと決意すると共に、一方、その頃これに似た事例を他にも見聞するうちに、台湾の平和のためには台湾人による台湾の独立が必要であるとの確信を持つに至つた。その頃、たまたま日本より戻つて来た留学生から、日本には台湾独立運動の組織のあることを伝え聞き、自分も日本に留学してこれに加わつて独立運動のために身を捧げたいと念願するようになつたのである。

かようにして、原告は、来日後まもない昭和三八年一二月、蒋政権の打倒と台湾の独立とを標榜する台湾青年会(台湾独立連盟の前身)に加入し、その後、右組織の総務部長、資金部長、中央委員、常務委員等の役員をつとめ、機関誌「台湾青年」五一号には、林朝輝という変名で「一九六五年を迎えた国府」と題する論説を発表して、国府の政策、とくに蒋経国の政策を非難し、また同誌七四号、七六号には、本名で「台湾の国際法上の地位」と題する論文を投稿し(これらの論文の発表、投稿については当事者者間に争いがない。)、また同種の雑誌「台湾」一巻三号には、「在日台湾人の法的地位の問題点」として、「蒋占領政権は台湾の主権者ではない」との主張を発表するなどして、いずれも反国府の思想を展開したほか、しばしば右組織が主催する台湾独立思想宣伝のための集団示威運動にも参加する等の政治的活動を行なつている。以上の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

五台湾における政治犯に対する処置

現在台湾の蒋政権の下で、政治的犯罪に対して別紙のような刑法および懲治叛乱条例が制定施行されていることは、当事者間に争いがない。

〈証拠〉を総合すれば、蒋政権が台湾を統治するようになつてから間もない頃の昭和二二年二月二八日、台北において、たばこ専売の取締りに端を発し全島に拡大波及する大暴動が起つた。後にこれは二・二八事件と呼ばれているが、蒋政権は、当時これを鎮圧するため、大陸より二個師団の軍隊を呼びよせ、多数の台湾人活動家を逮捕処罰した。これを契機として台湾には戒厳令が布かれ、そのまま今日に及んでいる。そして、昭和二四年一〇月頃以降は警察力が強化され、蒋政権に反対する共産主義思想および台湾独立思想に対する取締りはもとより、蒋政権を批判する言論への弾圧も厳重で、たとえば、昭和三五年九月蒋介石の側近の雷震なる者が「自由中国」という雑誌を通じて、台湾における中華民国の政治形態が民主的ではなく、形式的には多数党を認めるが如くで、実は国民党(蒋政権の政党)の事実上の独裁政治となつている旨蒋政権に対する批判を公表したために、懲役一〇年(若しくは禁錮一〇年)の刑に処せられたほか、季万居、蘇東経、彰明敏らの著名人がいずれも思想問題で処罰を受けた。以上の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

次に〈証拠〉によれば、訴外顔尹謨、同劉佳欽の両名は、台湾人であるが、顔は昭和四一年一二月、劉は昭和四二年四月いずれも留学生として来日し(留学生として来日した事実は当事者間に争いがない。)日本において辜寛敏その他台湾独立連盟に属する人々と接触した後、昭和四二年の夏休みに台湾に帰省した際に逮捕され、同年一二月八日、他七名の者と共に叛乱罪として軍事法廷に起訴された。顔に対する起訴事実の大要は、同人は二回台湾独立問題の討議に参加し、相前後してビラ、宣言書、決議書を領布し、日本において台湾独立分子と接触して積極的に活動し、同分子の命を受けて台湾に戻り、公共施設の破壊、政府要員の暗殺計画に参画し、台湾独立運動の組織の発展に従事した、というのである。また、劉佳欽に対する起訴事実の大要は、同人は二回台湾独立問題の討議に参加し、台湾青年団結促進会を組織し、日本において、台湾独立運動を行なう分子と結託し、同分子の命を受け、台湾に派遣され、連絡工作を担当し、暗号で通信することを約した、というのである。その後、右両名は裁判において、いずれも死刑を求刑されたが、判決においては懲役一五年の刑に処せられた。また、訴外陳玉璽は台湾人であるが(同人が昭和四二年八月一七日、日本に観光客として入国し、その後法政大学に入学する目的で在留期間の更新を受けたが、結局期間満了後である昭和四三年二月九日、台湾に強制送還されたものであることは当事者間に争いがない。)、日本より台湾に送還された後、昭和四三年六月一八日に、台湾において叛乱罪で軍事法廷に起訴された。その起訴事実は、要するに、日本に滞在中、中国共産党の「華僑総会」副会長呉普文に中国大陸に渡ることを依頼したり、中共の出版物「大地報」の校正の仕事を手伝つたり、毛沢東思想を讃美する文章を愛華という変名で同誌に発表したりしたということであつた。同人は同年八月一日軍事法廷で有期徒刑七年、公権剥奪五年の刑に処せられた。以上の事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

六原告らが送還された場合と処罰を受ける可能性

以上のごとき事実関係の下においては、現在の中華民国政府は、反政府的言論に対しては、極めて厳しい態度をもつて臨んでおり、とくに中国共産党の思想および台湾独立運動の思想に対しては、強力な弾圧を行なつているものであることを看取することができる。従つて、原告らのごとき台湾独立思想を信奉し、そのための政治運動に挺身している者が、中華民国政府の支配下である台湾に送還された暁には、叛乱罪として起訴され、相当な重刑を科せられるであろうことは、必至というべきである。尤もこの点に関し、被告らは次のごとく主張する。即ち、昭和四三年二月七日付在日中華民国大使館より法務省入国管理局に宛てた覚書によれば、同大使館は、「中共組織参加の元兇を除き、中華民国政府が国家の利益に違反する台湾独立運動等の政治活動をなした者に対し、過去の如何を問わず処罰しないという寛大な精神を執つている」、「中華民国政府は、一貫してこの精神に基づいてかかる事件の処理に対処してきた」、「中華民国政府は、今後もまた上述の寛大な精神と政策に基づきすべての類似事件の処理に対応するものである」と申越してきているから、原告らが台湾に送還されても処罰を受けるおそれはないと主張する。そして〈証拠〉によれば、昭和四三年二月七日に中華民国大使館より法務省に対して、被告ら指摘のとおりの内容の覚書が送付されたことを認めることができるが、同時に、この覚書の根拠となつているのは、昭和四一年一月元日に行なわれた蒋介石の年頭のメッセージと、同年八月二〇日に発表された行政院長厳家淦の談話および昭和四二年一月七日に行なわれた外交部長魏道明のメッセージであることもまた明らかである。そうだとすれば、さきに認定した訴外顔尹謨、同劉佳欽に対して刑事訴追がなされた日は、右各メッセージおよび談話の発表されたいずれの時よりも後である昭和四二年一二月八日であり、また、訴外陳玉璽に対する刑事訴追は、さらにそれよりも半年以上も後の昭和四三年六月一八日(これは覚書が中華民国大使館より法務省に対して送付された日よりも後である。)に行なわれたものである。それにもかかわらず、顔尹謨らは死刑を求刑されて、懲役一五年に処せられたし、陳玉璽も有期徒刑七年に処せられているのである。してみれば、中華民国大使館より法務省に対する覚書にいう「寛大な精神に基づく事件の処理」の実情は、右のごときものであると解するほかはなく、従つて、被告らのいう、原告らが台湾に送還されても処罰されるおそれはないとの主張は、失当というほかない。

七裁量権の逸脱濫用の有無

出入国管理令第五〇条第一項に定める外国人の在留特別許否の判断は、法務大臣の自由裁量に属するものであり、右許可は、国際情勢、外交政策等をも考慮のうえ、行政権の責任において決定さるべき恩恵的措置であることは、被告らの指摘するとおりである。従つて、その裁量の範囲は極めて広いものではあるけれども、全く無制限に認められるというものではなく、やはり、その裁量が甚だしく人道に反するとか、著しく正義の観念にもとるといつたような、例外的な場合には、裁量の逸脱ないしは濫用があつたものとして、取消の対象となしうるものといわなければならない。これを本件について考えてみると、前記認定事実よりすれば、原告らは、本件退去強制手続によつて台湾に送還された場合には、政治犯罪人として刑事訴追を受け、少なくとも相当長期間の懲役刑ないし禁錮刑に処せられることが必至であると考えられる。してみれば、本件送還は、原告らから、将来の生活上の希望を全く奪うに等しい結果を招くものであつて、著しく人道に反するものと解さざるをえない。尤も、このような結果も、原告らがわが国に在住することが、直ちにわが国益に反し、又は公安を害するというのであれば、やむをえないことである(出入国管理令第二四条第四号ハないしヨ参照)。しかし、原告らがそのような実質的法益侵害に及んだことは、本件退去強制の理由とされているところではないし、また、そのような事実の存在については、なんの主張立証もない。原告らが、ただ形式的に旅券に記載された在留期間を経過して本邦に残留したという事実に基づいて、本件退去強制手続が開始されたものであることは、弁論の全趣旨より明らかである。もちろん、そのこと自体も一つの形式的な法の違反であるから、法益侵害といえないことはないであろう。しかし、このような法益は、これを回復するために、個人の生活の将来の希望をすべて犠牲にしなければならないほどに重大な法益といえないことは、明らかである。

一方、被告らの主張によれば、被告大臣は、本件裁決をするにあたり、次のような認識において裁量権を行使したというのである。即ち、

「原告らのいわゆる台湾独立運動なるものの実態は、必ずしも明らかでない。原告らは台湾においては、何らの運動を行なうことなく、本国政府から旅券の交付を受けて出国した後、自ら台湾独立運動者と宣伝し、本邦においてことさら人目につく刊行物等の発行を行なつているもので、組織らしい組織を持たない程度の集りで、原告らのいわゆる台湾独立運動は、真しな政治運動ではなく、単に特別在留許可をうるための方便にすぎない云々。」という認識である(なお、前記中華民国大使館より法務省あての覚書は、昭和四三年二月七日付のものであり、本件裁決の時即ち昭和四二年八月一四日には、この内容は全く考慮されていなかつたものである。)。いずれにしても、右の認識と、既に認定した本件の実態とを対比するならば、被告大臣が本件裁決にあたり、極めて誤まつた事態の認識のうえに立つていたということは、一目瞭然である。

八結論

かようにして、被告大臣は、事実誤認の結果、裁量権の逸説による裁量を行なつたものというべきであるから、これに基づく本件各裁決は違法であつて取消しを免れず、また、このような裁決に基づいてなされた被告審査官の本件各退去強制令書の発付も、右裁決のかしを承継するものとして違法であるから取消しを免れない。よつて、これらの取消しを求める原告らの本訴請求は、すべて理由があるのでこれを正当として認容し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条を適用したうえ、主文のとおり判決する。(高津環 小木曾競 海保寛)

〈別紙〉

一 刑法第二編分則(一九三五年一月一日公布、同七月一日施行)

第一章 内乱罪

第一〇〇条

(一) 国体の破壊、国土の窃拠、または非法な方法をもつて国憲の変更、政府の顛覆を意図し、着手実行したものは、有期徒刑七年以上に処する。首謀者は、無期徒刑に処する。

(二) 前項の罪を予備または陰謀して犯すものは、六箇月以上二年以下の有期徒刑に処する。

二 懲治叛乱条例(一九四九年六月二一日公布施行)

第二条 (1) 刑法第一〇〇条第一項、第一〇一条第一項、第一〇三条第一項、第一〇四条第一項の罪を犯すものは死刑に処する。

第五条 反乱組織または集会に参加したものは、無期徒刑または一〇年以上の有期徒刑に処する。

第七条 文字、図書、演説をもつて、反徒に有利なる宣伝をしたものは、七年以上の有期徒刑に処する。

第一〇条 本条例の罪を犯すものが、軍人である場合は、軍事機関が審判し、非軍人である場合は、司法機関が審判する。戒厳地域において、これを犯すものは、身分の如何を問わず、一律軍事機関が審判する。

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